-付録2-

’95.12.20〜’02.01.21まで

並木の姓氏で歴史に垣間見ると・・・以下の方々がいらっしゃいました♪
並木正三
享保15年(1730)生  安永元年(1773)没  初名泉屋正三  寛延3年(1750)  並木宗輔入門より改名 正朔(和泉屋正兵衛         正三父  生年・没年不明  元松江藩士  (歌舞伎のサイトで見つけてしまった。)

埼玉県新座市教育委員会

柳剛流剣術と並木惣次郎(りゅうごうりゅうけんじゅつとなみきそうじろう)

江戸時代は日本武芸の黄金時代です。武士階級以外の帯刀は禁じられていましたが、幕藩体制がゆらぎ、社会が変化すると武術についても町人や農民の間に武芸稽古の機運が生まれました。
 片山村の農民並木惣次郎は、弘化(こうか)2年(1845)7月28日、柳剛流の剣豪、岡田十内(おかだしょうない)の門弟(もんてい)となりました。
 柳剛流は全国的に知られた流派で、その特徴は脛(すね)を切ることを最大の攻撃方法としています。薙刀(なぎなた)・柔術などを併せた実践的な武術でした。
 北足立郡下戸田村(現、戸田市)の「下戸田道場」に残された門弟帳(もんていちょう)によると、同じ日に並木姓が6名記されています。彼らもまた片山村の出身と考えられ、当時の若者の新しい生き方がうかがえます。
 のちに惣次郎は、農耕の合間に下戸田道場に通い稽古に励み、翌年3月には十内から柳剛流『切紙(きりがみ)』を伝授されました。
 惣次郎の生家である畑中の並木三之家には、幕末を生きた惣次郎の免許目録である『切紙』が、今に残ります。

東京都八王子市の見所より

並木 以寧(なみき いねい)
日蓮宗 長祐山 八王子市上野町11−10
法蓮寺(ほうれんじ)には、医師でもあり書道家でもあった 千人同心組頭、 並木 以寧(なみき いねい)の墓があります。 天保の大飢饉で高尾街道・石神坂(元八王子町2丁目近辺)の田畑を提供し、村人たちを救った社会福祉事業家。

千人同心とは、武蔵・甲斐の国境の甲州街道警備 をするために設置された十組千人の武士団で、拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くありませんが、式台付きの玄関などは、格式の高さを示しています。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷がありました。
基本的には世襲制でしたが、病気や怪我などで公務につけなくなった時は、同心株を他家に譲り渡すということもあり、多摩や相模まで広がっていった背景を持ちます。
身分は武士なのですが、通常は高持ちの百姓として、耕作にもしてました。兵農分離のもとでは、士族身分と農民身分の両方をもつ、まれな団体的農兵でした。同心は御家人として幕府から米が支給されるのですが、同時に農民として年貢も納めるという極めて特異な形態なのです。

並木氏伝承検索より

並木七左衛門 なみき しちざえもん
岩村田藩主、内藤豊後守正縄が、文政(1825)12月、大阪大番頭となった際、藩の財政は窮乏に陥っていた。
 この時、藩では野沢の豪農並木七左衛門に藩の財政整理を命じた。
 並木氏は大いに手腕をふるい、財政建て直しをやり遂げた。

(謎の情報)
曹洞禅宗萬年山長泉寺

杉並区上高井戸1-18-11

天保十一年(1840)かつて上高井戸の本陣であった「武蔵屋」(並木氏)の墓があります。

管理者より一言・・・
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